こんにちは! 今日から11月が始まりました! 段々と肌寒くなってきましたが、皆さんはいかがお過ごしですか?
本日、うだりおの長編小説第三弾となる『ジンセイイチド』がKindleストアから発売されました!
本作は、21年前に起きた災害の爪痕を心に抱えた幼馴染四人のお話です。 舞台は、山間のとある田舎町。町を二分するように流れる大河『龍神川』が話の中心を流れます。川以南の新田町で生まれ育った幼馴染の四人――ベンチャー企業の課長、義明、花屋の息子、岩男、地元の工場で働く翔平、そして画家のケン――は、『ある出来事』をきっかけに生きる意味を模索していきます。一方で、川以北の北保示町に住む大原は、出来損ないの一人息子と嫌味な妻に日々苛立ちながら生活しています。人生に意味を見出し前に進もうとするケン達と、だらしない息子を奮い立たせようと自身の人生観を押し付ける大原。二人は、夏も終わりに近付いた納涼花火大会の夜に、二度目の運命的な出会いを果たします(作品概要と試し読みはこちらからどうぞ)。
さて、私が本作で描きたかったことは二つあります。
一つは『選択の自由と我慢の社会』です。
人は生まれた瞬間から様々な選択をして生きていきます。 もちろん赤ちゃんのうちは親に選んでもらいますが、自我が芽生えてからは自分で選ぶようになります。どっちの靴を履いて外へ行くか。もっと遊ぶか家に帰っておやつを食べるか。寝る前にどの本を読んでもらうか……。時には選択肢が見えなくて困ることもあるでしょう。時には選択肢が多すぎて困ることもあるでしょう。それでも人は、自分の意思で道を選び、進んでいきます。 一方で、私たちは日々、知らず知らずの内に周囲に我慢を強い、周囲から我慢を強いられて生きています。我慢するということは、集団生活を営む上で必要なソーシャルスキルの一つですが、それが行き過ぎると、人を押し潰す大きな力ともなりかねません。
我慢や努力といったものが美徳になった社会で、自由意志が奪われ、選択の自由を失った人はどうなるでしょうか。
もしかしたら、人生が誰のものか分からなくなるかもしれません。生きる意味さえ見えなくなり、諦念感情が支配的になるかもしれません。そしてこういったネガティブな感情は、本作の冒頭シーンに繋がっていきます。 本作では、大原とケンと、二つの物語が同時進行で語られていきますが、どちらの物語が『我慢の社会』を主眼としているか、また二つの物語が交差した時、『我慢の社会』に何が起こったか、など感じてもらえたら幸いです。
そして二つ目は、『親子の関係』です。 親子の関係――本作では特に父子の関係について描いていますが、主人公のケンは父を事故で亡くし、翔平においては父親が蒸発しています。義明に父はいますが、仕事に忙しく家にいません。そして大原は、定職に就けない息子を理解できずに激しい口論に発展します。 彼らに共通しているのは、家庭における父の不在です。 子は親の背中を見て育つと言いますが、親が傍にいなければ背中を見ることさえできません。真っ直ぐに向き合ったことがなければ、互いに理解することはできません。 親になるということはチャレンジです。覚悟を試され、自分を試されます。そしてチャレンジには不安と恐怖が付き物です。大原とケン、二人はどうやって恐怖と向き合ったか、その辺りもぜひ楽しみながら読んでください。
そしてもう一つ。本作では、人生の面白さを表現するにあたり、『シンクロニシティ』という概念を取り入れています。 『意味のある偶然の一致』とも言われていますが、日常生活の中では、通常では起こり得ない確率で起こる珍しい光景を目にすることがありますね。人はそれを偶然と呼んでいますが、時に人はその偶然に意味を見出すこともあります。それがシンクロニシティです。どこかに旅行に行きたいとハワイの雑誌を読んでいたら、テレビからハワイの映像が流れてきたり、珈琲が大好きな友人のことを考えながら珈琲ショップに入ったら、まさにその友人がそこにいたり。目の前を同じ車が走っていたり、電車で隣の人が同じ靴を履いていたり。人生というのは非常によくできたすごろくのようです。誰かがサイコロを振っていて、誰かが気まぐれに駒を移動してしまう。面白いですね。 ぜひ、作中でシンクロニシティを引き起こしている物を見つけてみてください。そして、あなたの人生においても、周りにあるものに注意して目を向けてみてください。もしかしたら、意外なところにシンクロニシティが見つかるかもしれませんね。
本作は、これまでに発表したどの小説とも物語の構成が異なります。一章に一日を描いていて、読み進めるほどに時が遡り、謎が解き明かされる構成となっています。ぜひその手に取ってページを捲ってみてくださいね。
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