【第1回】底
落ちていく。
音もなく落ちていく。
まるで巨大な手の平で、尻と背中をすっぽりと支えられるように、ゆっくりと落ちていった。
全身の力は抜けていた。心地良いほどにゆらゆらと揺さぶられ、心和ぐほどに無心だった。
鼻の両穴に溜まっていた飴玉ほどの空気が、ぼこんぼこんと外に飛び出していく。次いで、唇の隙間から漏れる小さな泡たちが、ぽこぽこと列を作って海面へと昇っていった。
くるくると、決して一列ではないが、青く透き通った水の中を天に向かって進んでいく様は、死者の霊が成仏していく姿を見上げているようにも思える。
成仏してくれればいい。
天に到達して成仏してくれれば、それでよかった。
そこに行ってしまえば、なんで死ななきゃいけなかったのかとか、もし生きていたらどうなっていたかとか考えなくて済むし、毎朝、学校へ行く理由を探したり、寝る前に生きる意味を悶々と悩んだりせずに済むのだろうから。
大きく見開いた眼球に、周りを取り囲む青い海が映り込んだ。
群青色をほんの少し水に溶かしたような青だった。
広大で、重厚な海だった。
降参だ。
こんなに広い海から、逃げ出そうとすること自体、無理なんだ。
こんなに大きな海を前に、何かしようとすること自体が無意味なんだ。
とは言え、僕もこの海の一部――逃げられない。ここから出ることはできないし、もしできたとしても、出てしまったら、僕が僕でなくなってしまう――だから、たとえ臆病だと言われても、僕はこうしてここにいなければいけないんだ。
見上げれば、海面がちらちらと輝いて見えた。
無数のストロボライトのように乱反射する白光を遮って、小魚の群れが頭上を通り過ぎていく。小魚に混じって少し大きめの魚が悠々と泳ぎ、その下を、小振りのエイが、尻尾をぴんと伸ばしたままひらひらと泳いでいった。
目に映る全ての物が嫌だった。
周囲の人間も、その話し方も考え方も、蛙の鳴き声や車のエンジン音さえ嫌だった。
こんなところ、早く出たくて仕方がないんだ。
でも――。
こんなに綺麗な海が嫌いだなんて言ったら、罰が当たるだろうか。
こんなに美しい海を抜け出したいなんて言ったら、わがままだって罵られるだろうか。
やがて尻がそっと底に着いた。
手の平が海底に触れ、木綿のトランクスの脇から低速再生されたような砂煙が巻き起こった。
そこは車のエンジン音も人の声も、騒音も雑音もない静寂の世界だった。
感覚の研ぎ澄まされた指先で砂を握り込み、臍の上で拳を開く。真っ白い砂と一緒に腹に落ちた小さな貝殻が、脇腹からぽろぽろと転がり落ちていった。
口からまた少し空気を吐き出して頭を海底にそっと着ける。
すると、剥き出しの背中に硬い突起物を感じた。
岩か珊瑚か、あるいは貝かもしれない。
そう思った瞬間、それを避けるように指先だけで全身をふわりと移動した。
毒を持つ生物は何も魚だけではない。クラゲだってイソギンチャクだって、貝だって猛毒を持っている。この辺りで数種類のイモガイが生息しているのは知っていたし、手の平大に成長したものを見たこともあった。
口から巨大な空気の塊がぼこぼこと漏れ出ていく。
死んでもいい、そう思う自分と、無意識でそれを避けようとする自分がおかしかった。結局のところ、本当に死んでもいい訳ではないのだ。
血中の酸素が減っていた。手足の感覚がなかったし、心臓が無理に膨らんでいるように感じたから間違いなかった。胸を殴られたような息苦しさに、頭を空っぽにし、全身の力を抜くと、何かに縛られたように動かない体が、まるで無重力の空間でハンモックに揺られるようにふわりと浮き上がった。いつだって何も考えずに流れに身を任せた方が楽なことを、体は知っている。だからこそ、一生懸命にもがき続ける人間を人は憐れだと言うのだろう。
やがて頭蓋骨の内側に重低音のように響いていた心音が弱まり、全身が海と同化していった。
体の下に敷いた毛布を引っ張られるように、体が左右にゆらりゆらりと揺れ動く。
透けていく。
何も動かさなくていい。
何も考えなくてよかった。
それはちょうど、どう力を入れれば、どう動くのかを初めて試すような、別の言い方をすれば、この世に生まれ出て初めて、それまでの反射的動作に自我を紐付けるような、そういう感覚だった。そしてそれは、いつも苦しくて、ぎごちなくて、それでいて満ち足りていて――。
唇から漏れた小さな気泡が数個、ゆらゆらと昇っていった。
見上げた水面の向こうには、なにがあるのだろうか。
きらきらと輝くあの水面の向こうに行けば、違った世界があるのだろうか……。
そう考えた途端に、限界に近付いた心音が思い出したように、どくどくと水中に伝播していった。
周囲に轟くそれは次第に大きくなり、魚達が慌てて泳ぎ出す。海草や砂が髪の毛や手足に纏まり付き、行くなと止めていた。青年はゆっくりと体を起こすと、砂の上に蹲(うずくま)った。そして海底を蹴って真っ直ぐに飛び上がると、細く美しい体をくねらせて、頭上で瞬く光へと昇っていった。