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Photo by anaterate

【第2回】セックスホテル

 電車を途中で降りた俺たちは、歓楽街にある古びたホテルに向かった。

 青や緑のネオンをくぐって自動ドアを入ると、左手にカウンター、正面に部屋の写真がパネル状に並んでいた。パネルに表示された部屋番号はそのほとんどが光っている。カウンターに人の姿はなく、奥の壁に掛かった横長のモニタには海の映像が流れていた。

 ここは海の底をイメージして作られたと聞いたことがある。そう言われてみればたしかに、壁には魚の絵が描いてあるし、ホテル内は青みがかった薄暗さだった。それに、ロビーにはさっきから変なBGMが流れている。ねっとりと脳味噌に絡みつくような協和音はどこか神秘的で、ずっと聞いていると頭がぼうっとしてきた。これが海の音なのかどうかはさておき、安っぽい電子音よりかはそれっぽさがある。

 ケンが右奥の階段へと向かっていく――と、カウンターの奥にあった古い扉が急に開いた。

「あんたたち!」

 中から一人の老女が慌てた様子で飛び出してくる。

「警察沙汰はもうやめてよ! 営業妨害で訴えるからね!」

 老女はぼさぼさの髪のまま、俺たちを睨みつけていた。半開きの口元からは入れ歯か何か知らないが、マウスピースのような金歯が覗き、カウンターについた手には、指先が出るタイプのカラフルな手袋をしていた。その指先から煙草の白い煙がゆっくりと立ち上っている。

 この女は、ここの管理人だ。奥の部屋でモニタを見ていたんだろう。それで俺たちが入ってきたのを見て、慌てて飛び出してきたってわけだ。この女は、以前俺たちがここで、某歌手と某芸能人を監禁したことを知っている。そしてそのことを警察に話してはいけないことも分かっている。つまり、警察への対応が面倒だからそういうことはもうやめてくれと、そう言いたいんだろう。でもこのホテルのオーナーには貸しがある。オーナーの身辺整理を手伝ったり、金回りをよくしたり、俺たちはここのオーナーに協力してきた。ここだけじゃない。都内にはそういうホテルがいくつかある。だからいくら面倒でも、女は俺たちに協力しなければならない。借りたものは返す。子どもにだって当たり前のことだろう。

「ねぇ、聞いてる?」

 老女は煙草をすぱすぱやりながら俺たちを睨みつけていた。

 いつものことだ。気にすることはない。

 俺たちは老女を無視して階段を上っていった。

 

「なにがあった?」

 階段を上りながらケンに聞く。

「ジュッポン。忘れたんだって」

 ケンはうんざりした顔で言った。

 ジュッポンってのは、さっきケンが老人の首元に突き刺した細長い筒のことだ。筒の中にはナノボットっていう小さな機械が入っていて、それが対象の記憶を集めてくれるらしい。俺も詳しいことはよく分からない。ただ、その記憶を集めてくれるナノボットは一体、二十万円する。それが筒の中に五十個入っているから、筒一本、一千万円。だから十本筒。一本なのにジュッポン。面白い名前だ。

 四階に着くと、ケンはニット帽を深くかぶった。ケンを見ると、狩りの顔になっていた。だから俺もキャップの上からフードをかぶった。ケンは「行くよ」と俺を見て、非常扉を開けた。すると重々しい金属音が薄暗い廊下に響き、俺たちは突き当たりの部屋まで歩いていった。

 

 408号室。

 そこは俺たちがよく利用する部屋だった。芸能人、政治家、そいつらがセックスするところを隠し撮りする部屋だ。カメラは二つ仕込んである。撮った動画は、場所が分からないように編集して、あとでネットにアップする。ニュースになったこともある。自殺したやつもいる。でもしょうがない。俺らの仲間とセックスして逃げたそいつらが悪い。

 扉の前でケンが手袋を嵌めていた。

 ケンはいつも抜け目がない。カメラの前を通る時は顔を伏せ、物を触る時には手袋を嵌める。髪の毛が抜け落ちても分からないように頭は剃り、さらにその上からニット帽をかぶる徹底ぶりだった。夏でもコートを着ているのは、腕や背中に入った入れ墨が路上カメラに映らないようにするためだって前に言っていた。

 ケンが俺を見て、それからドアノブを静かに回す。

 かちゃりと小さな音がしてドアを開くと、汗だか湿気だか分からない生温かい空気がもわっと漏れ出した。

 ほんのりと酸っぱくて、ほんのりと生臭い。

 足元のカーペットには何かの染みが広がっていて、歩くと、濡れた芝の上を行くみたいに湿っている気がした。

 中から誰かの話し声が聞こえてくる。

 ゆっくりと部屋の中へ入っていくと、奥の角に半裸の男が椅子に座っていた。

 ワイシャツは着ているが胸ははだけ、靴下と靴は履いているが、ズボンは穿いていなかった。目の周りを青く腫らし、唇を切って口から血を流している。五十代? いやまだ四十代か。見たところ、どうやら椅子の背後で両手を縛られているようだった。ベッドに目をやると、ベッドには若い女が座り、鏡の前には、金髪坊主頭の若者が別の椅子に悠々と寄り掛かって座っている。

「お、来た来た。呼んどいてあれだけど、ごめん、余裕だったわ」

 若者は俺たちを見て、にんまりと笑みを浮かべた。

 彼の名はネイ。マギが連れてきた若者だ。もともとはマギの客だった若者だが、話しているうちに仲良くなって仲間になった。地下格闘技で慣らしただけあって、喧嘩にはめっぽう強い。特にその足技は柔らかく切れがあった。間合いの取り方も攻撃のタイミングも、天性の勘ですぐに相手に適応させる。格闘技をかじったことのある人間なら誰でも知っているくらい有名な選手だったようだが、何かの大会で相手を再起不能になるまで殴り続けて選手資格を失ったらしい。ウシも知っていた。かなり好戦的な若者だが、俺たちといる時は大人しい。

「だれ?」

 壁に隠れてケンが言う。すると、「コガネムシ」と、ネイは親指を立てた。

 部屋は簡単な造りだ。ベッドと椅子、壁かけモニタと鏡台があるだけ。壁には宝箱や船長室にある操舵輪が描いてあって、天井には白い鳥が飛んでいた。だいぶ前に、この部屋は大昔の海賊船をイメージしていると聞いたが、いつ見てもどうしようもなく安っぽい。その部屋に入ってすぐの壁沿いに、俺たちは隠れて中の様子を窺っていた。

 でも見たところ、椅子にいる男は、狩りの対象としては若そうだった。たぶん、リストに載ってる人間ではないんだと思う。つまり俺たちは、ネイの小銭稼ぎに呼び出されたってわけだ。

 ケンを見ると、ケンは渋い顔で首を振っていた。

 俺もそう思う。正直に言うと、こんな奴に十本筒を使うのはもったいない。

「おい、オッサン!」

 でもネイは、どうやらそう思っていないようだ。

「俺の女に手出しといて『すいません』じゃねえだろ? おい、聞いてんのか?」

 ネイは男を挑発していた。

 目的はカネだろう。まだ狩りの経験の浅いネイは、報酬の分け前も少ない。狩りだけではやっていけないから、たまにはこうして、カネを持っていそうなヤツからカネを巻き上げるしかない。

 すると、男がゆっくりと顔を上げた。

「手を出してきたのはそっちでしょ? あの女から誘ってきたんだ!」

 男は高い声でそう言って、ベッドに座る若い女に目をやった。

 女はすでに服を着て、ベッドの上で長い栗色の髪を一つに縛っていた。傍にはケンが立ち、女に現金を渡して出ていくように指示している。女は自分のバッグを手繰り寄せると、中に現金を突っ込み、乱暴に男に中指を立てた。

「そんなこと聞いてねえんだよ」

 ネイが椅子から立ち上り、男に近づいていく。そして男の前に立つと、間髪入れずに蹴りを繰り出した。

 一発、二発――。大木を蹴ったようなにぶい音が部屋中に響き渡る。

 男の黒髪が右へ左へと乱れ、口からぽたぽたと血が落ちた。肌が白いから、鼻から下に赤いマスクをしているみたいだった。でもよく見ると、腫れ上がった左目の周りに眼鏡焼けのあとがくっきりと残っている。眼鏡焼けは普段からMRグラスをかけている証拠だ。MRグラスはどこだ?

「どう落とし前つけんだよ? あ?」

 ぐったりと俯いた男の頭をネイが髪を掴んで持ち上げる。

「僕じゃない。あの女だ……、僕じゃない……」

 男は弱々しく声を絞り出すと、またがっくりと項垂れた。

 実際、先に手を出したのはネイの方なんだろう。女を使って男を誘い出して、女とセックスさせて、後からカネを脅し取る。常套手段だ。ただ、そもそもの話、ネイの仕掛けた罠に、罠とも知らずに嵌まったこの男の方が悪い。

 すると、ベッドの脇に立っていたケンが言った。

「動画見た人はどう思うかな? 知り合いは? 奥さんは?」

「動画?」

「お前がイクとこ、ばっちし撮影したから、あとでネットに上げとくな。あ、大丈夫、モザイクかけとくから、俺の顔に」

 ネイが笑う。するとそれを見た男は、真っ赤に染まった歯を見せて肩を震わせ始めた。最初は小さく、それから徐々に、くくくと笑いをかみ殺すように。

「ああ、そうか……。仲間を呼んだと思ったら、君たち、カミナリとかいう愚連隊だね?」

 男は赤い歯を剥き出しに笑っていた。

「愚連隊ってなんだよ」

 ネイも鼻で笑う。

「君たちのことは知ってるよ。社会の落ちこぼれ。箸にも棒にも、なーんにも引っかからない親知らず」

 そう言うと、男はぎろりとネイを睨みつけた。

「でもね、こんなことして、ただで済むと思わないでよ。僕は優民党直属の政策立案士なんだ。この国で十本の指に入るんだよ。有名な政治家もたくさん知ってる」

 すると、ネイがケンに振り返った。

「だって」

 ケンが政策立案士を目指していることはネイも知っている。もしケンがこの男を利用するつもりなら、これ以上痛めつけても意味はない。

 どうするんだ、ケン?

 ケンを見ると、ケンはコートのポケットに手を入れ、絨毯についた黒い染みを靴底で何度も擦っていた。

 何を迷っているんだ? この国で十本の指に入る政策立案士なんてそうそう会える人物じゃない。もしこいつが言ってることが本当なら、こいつに口利きをさせれば試験なんて受けなくても、政策立案士になんかすぐになれる。証明書を発行させて、データベースに登録させる。簡単なことだ。

 すると、ケンが言った。

「名前は?」

「竹之内だ。竹之内邦孝、覚えておけ!」

 男の大声が部屋に響き、同時に口から血が飛び散った。

 でもケンはうろたえない。いつものように冷静で無慈悲なケンだった。

「聞いたことない」

 そう言って、男をじっと見つめる――やっていいの合図だ。

 すると、それを聞いたネイは嬉しそうににたついて、

「だって」

 と、男に向かってまた足を持ち上げた。

 その瞬間、男が叫ぶ。

「待って! いくら? いくら欲しいの?」

 男はいよいよ観念した様子でネイを見上げていた。

 男の口から、ぼたぼたと血が滴り落ちる。

 するとネイは、にんまりと笑って、振り上げた足をゆっくりと下ろした。

「二十万」

 妥当な額だろう。ネイにとっては大きな収入で、男にとっては端金。そのちょうどいい真ん中を取った、そういうカネだ。ただし、その半分は俺とケンのものだが――。

「分かった、払う、払うから、そこにある鞄を取ってくれ」

 男はそう言うと、ベッドサイドにある茶色い革鞄に目をやった。

 やれやれ、これでジュッポンを無駄遣いせずに済んだ――そう思って、鞄に目をやった時だった。

「五百万」

 ケンの落ち着いた声が部屋の中に浸透した。

 俺もネイも驚いてケンを見る。するとケンは、ベッド脇から半歩進み出て、椅子に座るネイに十本筒を差し出した。

 十本筒? それを渡したってことは、こいつを狩るってことだ。

 リストにないヤツを狩ってもカネにはならない。それはケンも分かっている。つまりこれは、カネではなく、ケンの私情ってやつだ。でも男は、当然、そんなこと知らないし、その額に納得するわけがない。

「は? 五百万? ふざけるな!」

 男はそう言うと、大声を出して暴れ出した。

 男はがたがたと椅子を揺らして、手を縛っているものを解こうと暴れている。首の血管を浮き上がらせて、頭を激しく振っていた。

「お前、うるせえよ。五百万、払うの? 払わないの?」

 そう言って、ネイが男に近づいていく。そして男を黙らせようとネイが足を振り上げたその時、男は勢いよく椅子から立ち上がり、片手をすっと前に突き出した。

「うおぅ……」

 咄嗟にネイが距離を取る。

 男は手に小型のナイフを握っていた。刃を収納できるタイプだ。靴底に隠し持っていたんだろうか。椅子の後ろで両手を縛っていたネクタイは、切断されて床に落ちていた。

「来るなよ! 刺すぞ! ゴミクズ共が! みんなまとめて刺してやる!」

 男はナイフを突き出して威嚇していた。

 溜息ってのはたぶん、出そうと思って出るものじゃない。

 これから先に起こることが頭に浮かんで、それにうんざりした時に自然と口から出るものなんだと思う。それはべつに目の前の男に対してじゃない。ケンに対してだ。ケンはたぶん、政策立案士の道か、自分の感情か、悩んだ末に自分の感情を優先させた。ケンは冷静だが、損得で動く人間じゃない。むしろ自分の感情に正直だ。きっと男が口から血を飛ばしながら喋ったことも、見下したように笑ったことも、権力を盾にしたことも、全部、ケンの気に障ったんだ。そういう人間が嫌いなケンらしいと言えばケンらしい。でもこれで六月の試験は確定した。俺はまたケンに面接の練習相手をさせられるってわけだ。

「あのね、オッサン、そんなんで俺らがビビると思ってんの?」

 ネイが前に出る。するとケンがネイを止めた。

「バカ、行くな」

「なんで?」

「よく見ろ」

 ケンの冷酷な視線が俺を捉える。

 俺に行けってことか。

 男に目をやると、細身のナイフが男の手の中で震えていた。

 ナイフを持つのは初めてなんだろう。初めての奴にできることは限られている。

 じっと見ていると、男はナイフを盾にゆっくりとベッドに近づいていった。それからベッドサイドに置いてあった鞄に手を伸ばすと、それを大事そうに抱えて部屋の中を歩き回っていた。

 でもここは狭い部屋だ。四階だし、扉の前にはケンがいる。

「クソッ! お前、そこどけ!」

 きょろきょろと首を振っていた男が、突然、俺にナイフを向けた。

「お前だ、そこのお前!」

 血だらけの男が凄んでいる。

 ああ、三人の中で俺が一番弱そうに見えたんだと思った。でもそれも仕方ない。今の俺は童顔だし背も低い。外見だけで言えば、この中で一番ちょろそうなガキだ。

「クソガキが、大人を舐めんなよ」

 男がナイフを突き出して近づいてくる。

「警察庁長官に言うからな! お前ら全員、逮捕だ、逮捕! 覚悟しておけ!」

 口から飛び出した血が服につき、俺は溜息を吐いた。

 今度は、目の前の男に対してだ。俺はケンほどじゃないが、偉い奴の名を口にする奴は嫌いだ。偉そうな奴も嫌いだし、理不尽に絡んでくる奴はもっと嫌いだ。

 俺は服についた血を払うと、恐る恐る近づいてきた男の首に手を伸ばした。

 しっかりと顎の下に指を入れ、そのまま首を持ち上げる。

 男の体がすうと持ち上がり、男は目が飛び出るほどに両目を見開いて俺を見下ろした。

 舐めてたのはどっちだ?

 指先に力を込める。男は顔を真っ赤にして抱えていた鞄を床に落とした。

「ヨワッ。クソザコじゃん」

 ネイが笑う。

 さて、どうしてくれようか。このまま締め上げて、気絶させるってのはどうだろうか。

 少し本気で首を締めると、男は空中で足をばたばたと動かした。

「オッサン、早くタップしちゃいなよ、ほらほら、落ちる落ちる」

 ネイの笑い声が聞こえたその時、腕の真ん中あたりに小さな衝撃が走った。

 ちょうど柔らかい砂にショベルを突き立てた時のような、さくっと皮膚と肉をすり抜けて、その先の骨にかつんと当たるような、そういう骨の固いところが押されて、腕が少し押し下げられる感覚が頭に上ってきた。

「あーあ……」

 ネイの残念そうな声が聞こえる。

 妙に思って腕を見ると、腕にナイフが刺さっていた。

 ネイの言う通り、まったくもって、あーあだ。

 刺されたと分からなければ何ともないのに、刺されたと分かった途端に、そこが熱くなるのがまた面倒くさい。

 男を見ると、男はまるで化け物でも見るかのように怯えていた。

 俺みたいな人間を見るのは初めてか?

 俺は男の首から手を離した。

 指が動くか試したら、人差し指と中指が思うように動かなかったから、そこの糸が切れたんだと思った。このくらいの傷なら治るまでに一時間もかからないが、それまで左手は使えない。まったく本当に面倒なことをしてくれたもんだ。

 床に尻もちをついたまま、がたがたと震える男にケンがゆっくりと近づいていく。

 ケンはコートのポケットからスタンガンを取り出すと、男の前に膝を曲げて座った。

 男の鼻先で、取り出したスタンガンを左右にゆっくりと動かす。

 直後、機関銃を連射したような電撃音が鳴って、青白い火花が線を結んだ。

「どうする? 払う? 死ぬ?」

「待って待って! 分かった! 分かったから。払うから、ネットに上げるのはやめてくれ……」

 男は声を出すのも精一杯といった様子で口から血を流し、ぐったりと頭を垂れていた。

 

 そこからはいつもの手順だった。

 ケンがSN機を操作して銀行コードを表示させる。それをネイが男に見せて、指定の口座に送金させる。男は自分のスマートウォッチを鞄から取り出して送金の手続きをしていた。その横で、ネイは椅子に座って貧乏ゆすりを繰り返していた。ケンは男の傍に立って、男が仲間を呼んだりしていないか、用心深く見守っていた。送金の操作自体は数タップとは言え、それを待っている間はいつも退屈な時間だ。

 やがて男が「送った」と言って顔を上げた。ケンはSN機を開いて送金を確認すると、またいつものように親指を二度、ボタンを押すように動かした。するとそれを見たネイが、嬉しそうに椅子から立ち上がって男に近づいていった。

 十本筒を手のひらにぽんぽんと打ち付けながら近づき、助けを請う男の首元に容赦なく十本筒を突き刺す。男は必死になって抵抗していたが、やがて白目をむいて力なく床に倒れた。

「今時、安楽死だってカネがかかるらしいよ。それをタダでやってんだから感謝しろよな、オオガネムシさん」

 男を見下ろしながらネイが言った。それからケンに振り返ってぼそりと呟く。

「いいのか? 政策立案士だってよ」

 ケンはしばらく男を眺めていたが、やがてSN機を畳んでポケットにしまった。

「こいつはゲス野郎だ」

 そう言って一人、部屋を出ていく。

 ケンの掛けている丸眼鏡は高性能のMRグラスだ。たぶん男が名乗った時、その真偽を確かめていたはずだ。本物か、偽物か……。偽物だったら、あんなに憂鬱な目はしない。

 俺は腕に刺さったナイフを引き抜いた。

 すると、ぱっくりと開いた肉の隙間から濃厚な血がどくどくと溢れ出した。流れ出した赤い血は、腕を回ってぽたぽたとカーペットの上に落ちていく。

 ゲス野郎か……。

 腕を流れる血をそっと口に含む。

 それは、いつかの冷たい鉄の味。

 舐め続けないとすぐにやってくる静寂の味。

 自分以外に誰もいなかった、あの頃のチーズの味だった。

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