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あれから十年

相変わらず、私は文章を書くのが下手である。

相変わらず苦手意識はあるし、相変わらずあまり好きではない。椅子は少しグレードアップして尻が痛くなることはなくなったが、それでも書いては消し、書いては消しの執筆作業は変わっていない。伝えたいことをメモにまとめ、そこからシーンを想像し、組み立て、キャラクターを動かしてみて、言いそうなセリフ、言わなければならないセリフを書き起こし、周りの景色、音、匂い、感じたことを一から綴る。いつも通りの行程だ。そうそう、先日は家族から貧乏ゆすりの音がうるさいと苦情を受けた。もちろん、そこも変わっていない。

 

ただ、変わったこともある。

本棚に自分の小説が15冊並んだ。

最初の一冊は『ツナガリ』。これはアメリカから帰国したばかりの私が当時の日本社会に対して抱いた思いを物語としてまとめたものだ。
次に『ジンセイイチド』。この時もまだ私の思考回路はアメリカで培ってきたそれだったと思う。
そして『オモイヤル』。この辺りから徐々に、私の中に眠っていた日本人としての文化的思考が蘇り、アメリカで経験した物事と混じり合って、私の中の「伝えたい思い」が明確に固まっていったように思う。今はだいぶ薄れてしまったが、この頃はまだ私の中でジャカランダの紫色の花が風にそよいでいたのだ。

 

私の小説のテーマである「現代社会の生きづらさ」は、往々にして人間関係に起因すると私は思っている。それはたとえば友人であったり、親子であったり、夫婦であったり。もっと枠を広げれば、所属する職場であったり、学校であったり、地域であったり。『プラスチックハート』、『蝶と僕』、『水木金の香り』、『薔薇とチョコレート』。これらはそういった身近な生きづらさをテーマにした短編小説だ。そして『枠』と『盈月をとる』。上下巻から成るこの二つの長編小説では、もっと大きな枠、たとえば大多数が無意識のうちに共有する価値観であったり、真偽不明の刷り込まれた考え方であったり、そういうすでに完成された社会の仕組みの中で苦しみ生きる若者たちを描いた。どちらも、いよいよ日本の生活に慣れてきた私が、日々何となく感じていた見えない圧力を物語として昇華した作品だ。

生きづらさを個人で解決するのは中々に難しい。でもだからこそ、これからを生きる若い人たちのことを考えれば、私たちの世代でなるべく解決してやりたいと思うのは私だけではないだろうと思う。

 

今年、私は『特異点2069~大人になった子どもたち編~』を世に送り出す。

 

五年前、短編『蝶と僕』を書き終えた私は、次に何を書こうかと思い悩んでいた。ちょうど切りが良く、私が伝えたい思いはすべて書き尽くしたのではないかと、ある種の達成感に浸っていたのだ。そんな時、未来の車に関する記事を読んで、彼ら彼女らが大きくなった時の社会を想像した。はたして数十年後の未来は、今よりも「生きやすい」社会になっているだろうか、そんなことをふと考えた。

十年前、私は日本社会に息苦しさを感じていた。

あれから十年。社会はどう変わっただろうか……。

スマートフォンが当たり前になった。
書類や財布のデジタル化が進み、ボタン一つで手続きができるようになった。
SNSが普及した。動画コンテンツが主流になり、テレビや新聞など従来メディアの在り方が変わった。そしてSNSの普及により、日本のアニメやゲーム、音楽などのエンターテインメントコンテンツが世界に知られるようになった。また、性暴力事件、宗教二世問題、外国人労働者の人権問題など、地位や権力を利用した圧力や強要が可視化され、企業コンプライアンスの優先度が上がった。

 

少子高齢化が進んだ。
ファミレス、コンビニ、工事現場などで高齢の働き手や外国人労働者の姿を見るようになった。
都心では、若者を中心に、海外の食べ物やライフスタイルなど多様性を受け入れる考え方が広がった。同時にジェンダー平等やLGBTQ+の権利への理解や意識も広がった。

 

コロナがあった。
企業は自社の社員に意識を向けるようになり、個々の生産性が重要視されるようになった。
リモートワークが普及し、働き方の自由度が増した。
過労死や長時間労働が問題視され、休暇を取得しやすくなった。
カスハラという言葉が生まれ、企業は迷惑客からのクレームに断固として対応するようになった。
うつ病や虐めに対する理解が進み、企業ではメンタルケア専門の窓口を、学校ではスクールカウンセラーを置くようになった。

 

もちろんまだまだ改善の余地は多分にあると思う。しかし社会全体として、それまで真面目に生きてきた持たざる者、声の小さい者への理解は進んだ、個人的にはそう思う。

 

一方で、電車内のベビーカー論争はまだ解決していない。子どもの声に対する苦情もなくならない。街には依然として注意書きが溢れ、歩いているだけでなにか行動を制限されているような気さえしてくる。SNSでの誹謗中傷問題もそう。非常に暴力的で窮屈だ。それらを眺めていると、他人の人生にとやかく言いたい人間がいかに多いか、考えさせられる。

皆が同じことをすることを平等と履き違える人がいる。
多様性を高らかに唱えながら、他者の個性や強みを否定する人がいる。

なぜだろうか?

そんなことを考えていたら、数十年後の未来がぼんやりと頭に浮かんだ。それが四年前から書き始めた『特異点シリーズ』だ。

私が想像した数十年後の未来は決して明るいものではない。それでもそれを書き終えた今、日々の生活の中で私にもできることが改めて見えてきたように思う。

それはジャカランダの花が風にそよいでいたあの頃の思いと何も変わらない。

 

それは周囲で起こる物事に対してもっと寛容になるということ。

向き合う相手を尊重するということ。そして頑張っている人を称揚するということ。

あれから十年――。

私たちは前に向かって変わった。

だからきっと、10年後、20年後には、今よりももっと気楽で生きやすい社会に近づいていると信じている。

2024年10月、うだりお

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